| 会津若松 | |
| ・鶴ヶ城跡 | |
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この鶴ヶ城(旧名:黒川城)は、東に小田山を背負い南に湯川をめぐらし、西と北には市街に接っている平山城。至徳元年に芦名氏7代目、直盛公が築いた城で7層の天守閣があったが、寛永16年、加藤明成により2層取り壊し、5層に改築された。また江戸時代には、幕府の親類にあたる松平氏が代々藩政をしき、城の大きさも徐々に広められていった。鶴ヶ城の天守閣は戊辰戦争の際に西軍の攻撃目標となり、砲弾を受け、穴だらけになってしまったという。明治7年には時の政府より取り壊しを命じられ、石垣だけの城になってしまった。後に鶴ヶ城を訪れた、土井晩翠は石垣だけの城を見て「荒城の月」の詩を作った。また天守閣は昭和40年に復元された。
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| ・日新館跡 | |
日新館は、保科松平家が藩校として造営した、5年の月日をかける大工事であった。このころ徳川幕府が開かれてからおよそ200年になる。泰平の歳月は、政治にさまざまな悪弊を生じさせ、どこの藩でも、武士の士気は緩み、財政の悪化を招き、道徳の退廃があらわれていた。会津藩もまた、その例に洩れなっかった。心有る者は、誰しも憂えていたが、もっともそのことを痛感し、改革を考えたのが家老の田中三朗兵衛玄宰であった。田中家は藩租保科正之の時代から筆頭家老の家柄で、代々会津松平藩を支えてきた。玄宰は、父の若死にで、13歳で家を継ぎ、役職を重ね34歳で家老となった。がその直後病気となり2年近く療養している。これがかえって、彼の勉学を思慮を深めるのに役立ったようである。玄宰の考えは、現代の幼稚園から大学までの一貫した総合学園であった、その発案から着工までに年月がかかったのは、費用と場所の選定などの問題によるものである。着工してからは、役人も教授の学者も関係なく、わらじをはいて働き、5年をかけて一大学問の殿堂「日新館」が完成したのである。享和3年から、幕末までの65年間、会津藩士の精神と武技を養い育てるのに役立ったのである。この日新館に特筆すべき点は、水練水馬之池と印されたプールがある。講武所と剣術精武流の建物に囲まれて、プールが掘ってある。これは川渡りの馬術と泳法を習得するためのものであるった。したがって海に面していない会津でも、会津藩の師弟は幼少よりプールで水練を行っていた、誰一人泳げないものはいなかったという。また師範制度を一つとってみても、師範には世襲のものと、特選によるものとがあった。世襲制度には良い点もあったが安易に狎れて、師範としての資格のないものもでてくる。それを戒めるためあくまでも生涯勉強すべきことを示すためであった。師範としての学芸の不足するものは、給料を減らし、降格の上、修行すべきことを命じられるほか、罰金まで取られるという厳しさだった。これは教授師範自らが学問に励まなければ、子弟の訓育はできないことを規則で示したのである。また生徒のほうにも賞罰がはっきりしていて、弓馬槍刀の免許を得て、なおその道に励むものに真綿2包を下賜され、ほかに学問講釈所、兵学戦格に進んだ者には5包を賜った。このため会津藩士の向学心とその教育水準は他藩を圧して飛躍したのである。 |
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| ・御楽園 | |
会津三園の内の一つで、芦名の時代に作られた。また松平正容公が薬草を植えていたこともある。遠州流の造園術により東の山を背景とするよう工夫して築いたもので、木石の配合、泉水、樹木などさまざまの風景を盛り込んでいる。昭和7年10月史跡名勝天然記念物保存法により指定される。 |
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| ・山鹿素行誕生の地 | |
旧城跡の西栄町にある。山鹿素行は元和8年城主蒲生忠郷公の老臣、町野左近助の家に生まれ、彼は幼少のころより経綸を学び、名教武学に長けていた。9歳のとき林羅山の門に入り、神童と称され、16歳の時に、北条氏長に兵書を学び、22歳でその奥義を極め後に山鹿流の一派を開いて、一世に高く門人4千人を擁した、赤穂藩に移された後も山鹿流の兵学を講じていた。その教えを受けた同藩士中より赤穂47士を生んだことは有名である。 |
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| ・小田山 | |
戊辰戦争時に、西軍が城内を眼下に砲撃を行なった場所、頂上には旧士の墓石が多く、中には旧藩時代の会津の殖産興業に功績のあった田中玄宰翁の墓碑もある。山からの景色は市内を一望できる上、大川まで見ることができる。 |
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| ・飯盛山と白虎隊 | |
飯盛山の別名、弁天山とよび西麓には宗像神社、山頂は松が繁る。宗像神社境内ににはサザエ堂(外観がサザエの形に似ているのでそのままの名で呼ばれている。)がある。また白虎隊士白刃の地で、白刃十九士、戦死三十一士の墳墓があり、年中香煙が絶えない場所である。 |
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| ・蒲生氏郷の墓 | |
市内栄町二丁目の興徳時(神明通り第一駐車場横)境内にあり、五輪塔で空、風、火、水、地(ハッキリと字が読めなくなっている)の5文字が厳しく刻まれ一世の英雄がここに静かに眠っている。氏郷は小田原の陣のあと豊臣秀吉に抜擢され、奥羽守護に任じ百万石を領してこの地に拠り、奥羽を鎮定した。伊達正宗にも乗じる隙を与えなかった。文禄に4年にこの世を去る。享年40歳紫野大徳寺に葬り、その分骨がここに眠る。 |
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| ・神指城跡 | |
慶長50年、上杉景勝、石田三成と東西呼応して挙兵を約束した景勝が若松城が山に近く、守備に不便なので直江城城守兼続を総奉行として、満願寺仙右ェ門外五氏に工事させ、会津越後佐渡仙道米沢の役夫十数万人を使役して大規模築城にかかったが、景勝が米沢に改易となったため未完成に終わった。今は城跡が残り年神指町の如来道にある。城跡北東にある大欅は天然記念物に指定されている。 |
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| ・芦名氏の木像 | |
城東天寧寺町宗英寺に安置されている、国の重要文化財に指定されている。 |
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| ・一箕八幡宮 | |
一箕町八幡にあり、応神天皇を祭る。寛治年中八幡太郎義家が陸奥の清原武衝を討伐の帰途部下の士卒に命じ各一箕づつの土を運ばせ小丘を作り八幡宮を観請したと伝えられている。 |
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| ・諏訪神社 | |
栄町にあり、若松の大鎮守で祭神は健御眼名である。応永年間芦名盛宗が支族新宮助成を征伐しようと信州上諏訪神社に祈願をかけ、戦わずして勝った。新徳に感じ、ここに観請して領内の大神と崇めた。芦名氏、蒲生氏郷も社領を寄進された。後に保科正之の時に若松総領守となし、崇敬された。この社では暦術を教え、三橋兼也は当社に学び、伊勢の神職にこれを伝えたのが伊勢暦の起こりである。また戊辰戦争の際、兵火にかかり焼失その後復興される。 |
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| ・東山温泉 | |
東山町湯本にあり、古来奥羽三楽境の一つとしてうたわれたところ、伏見ヶ滝、不動滝、原滝、その先に雨滝があり、断崖36段に砕けて、飛沫を雨と降らし傘岩の右手にそびえたつ。この間に湯本の渓谷があり、四季変化に富み、渓流の両岸には、近代的建築を豪華な浴場を持つ温泉旅館が立ち並んでいる。効能は婦人病、リウマチ、神経諸病、腺病、癌性皮膚病。 |
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| ・芦ノ牧温泉 | |
栃木県境から流れる、大川の清流は、下郷のダム下流から奇岩怪石の美しい渓谷をつくり、有名な塔のへつりがあり、県立公園大川ラインを形成している。芦ノ牧、小谷温泉は、この大川ラインの下流の小谷つり橋をはさんで位置している。の下流の湯量が豊富で景勝の地で、初夏の藤、山吹、初秋の紅葉など四季を通じてよい。 |
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| ・県立博物館 | |
県内の文化遺産を集めた博物館で、広い館内の展示品に触れることができる。 |
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| ・会津酒造博物館、町方民族資料館 | |
会津藩御用達の此花酒造が、伝統の酒造道具や古文書、家宝などを展示していて他にも試飲コーナーが設けられている。 |
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| ・会州一蔵品館 | |
酒蔵に素晴らしい茶道具や古美術品などが展示してある資料館で、蔵元である山口氏が管理している。 |
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| ・せあぶり山 | |
標高833メートルで磐梯山や猪苗代湖が一望できる自然公園である。 |
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| ・与謝野晶子歌碑 | |
夢二の碑と湯川の間に位置し、歌人与謝野晶子が夫、鉄管との旅の思い出を詠んだ歌が記されている、与謝野晶子が無くなって40年のちに建てられた。 |
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| 北会津 | |
| ・白山沼 | |
トゲチョとも呼ばれている、イトヨが生息する沼でる。イトヨは水中に生えた水草で巣作りをする珍しい魚。周りをのどかな田園で囲まれた、白山沼は一年を通じて水温が一定しているので、イトヨが生息するのに適した環境また、このイトヨは天然記念物にも指定されている。 |
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| ・両堂不動尊 | |
目の病にご利益があるといわれ、参拝者も多く、9月3日の両堂参りには、門前に夜店が並び、昔なつかしい、夏祭りの情緒を今に残している。 |
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| ・田村山古墳 | |
全長24.9m、高さ1.2m前方後円墳でそれほど大きなものではないが東北地方では、珍しい鏡やガラス玉、直刀などを出土している。 |
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| 河東 | |
| ・八葉寺阿弥陀堂 | |
西北冬木沢にあり、会津高田山と呼ばれ空也上人が携えてきた、阿弥陀像を安置したのを持ってその創建とする、天正17年兵火で焼失した後、文禄年間由緒ある阿弥陀堂として再建された、その様式は室町末期の特徴を現し、明治37年保存建造物に指定されている。 |
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| ・藤倉二階堂 | |
倉橋の藤倉延命寺境内にあり。明治36年保存建造物に指定される。大同年間の創建と伝えられ、今は地蔵堂一字を残している。堂は重層四柱造本瓦葺、方三間の小堂であるが、周囲に裳層を附している。外観はすこぶる変化に富んでいる。内部は中央二本の来迎柱を立て前面に仏壇を安置する。唐様の手法を用いて、純然たる室町時代禅宗仏殿の様式を示し軒がこころよく反っている。、国指定重要文化財になっている。 |
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| ・会津村 | |
6万坪の敷地には広大な庭園があり、慈母観音像の胎内には、一万体もの十二支御守本尊が祀られており、展望窓からの眺めもよいが、園内は1年を通して様々な花が楽しめる。 |
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