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氏郷は幼少のころを人質として過ごしていた、このころの人質は、両国の和睦や同盟、戦争の抑止力のような働きであった、また交戦状態になると真っ先に殺されるのはこの人質である。氏郷の幼少のころの名前は鶴千代(13歳の時)織田信長に差し出されたただし軟禁状態にあったわけではない。 このころ信長は毎夜、戦いに長けた老戦士を呼び、武功話を聞くのを楽しみとしていた、小姓や近習の者達も聞いていたが大抵の者は居眠りをしていたのに対し、鶴千代(氏郷)はいつも目を輝かせていた、これ見た稲場伊予守は「蒲生の子はただ者ではない。彼は今に優れた武将になるであろう。」と語り称賛した。信長も鶴千代の資質を見抜き娘の冬姫を嫁がせるほどであった。人質を解かれた後、目覚しい働きを始め、鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って戦った |
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若松 | ![]() |
元の地名が黒川ということはすでに述べたが、黒川とは元は東山から流れてくる湯川のことで、氏郷は伊達正宗が400年続いた芦名氏を滅ぼしたことから縁起が悪いと感じ改名したという。若松となずけたのは氏郷の生まれた近江国蒲生郡日野の近くに綿向神社があり、その参道が若松の森といわれる、松並木がありそれを懐かしんだ氏郷がつけたという。 |
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保科正之 | ![]() |
会津藩主保科正之は隠し子と言うスキャンダルめいた暗い生い立ちを持って生まれた。その父親は当時最大の権力者の二代将軍徳川秀忠であった。ところがその最高権力者にも、頭の上がらない人間が一人居た、妻のお与江の方である。お与江の方は織田信長の妹お市の三女で、秀吉の愛妾淀君の妹にあたる。秀忠より八歳年上で、計略結婚で二回結婚し、三人の子を産んだ、ことのある女性。そのころ秀忠はそのころ江戸城大奥に使えた静かという女性を知るところとなる。静は秀忠の子を懐妊し、お与江の方の怒りを恐れた静はできた子を水に流したが、またしても秀忠の子を宿した。一族協議の上再び水に流そうとしたが静かの弟の政景が「将軍の子を二度も水に流すとは天罰は必定」と主張したため、正之が慶長16年5月7日無事誕生した。 |
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少庵 | ![]() |
鶴ヶ城内に茶室の麟閣を作った人物で、千利休の次男。少庵が都を離れ会津に居たのは、利休が秀吉の怒りに触れ、切腹させられたため。利休の茶弟子でもある会津領主の蒲生氏郷が亡き師の恩顧に報いるために、幾度も秀吉に願い出て、少庵を会津に庇護することになった。そのころ若松では鶴ヶ城築城の最中で、氏郷は小庵に茶室を作るように頼んで麟閣を作らせた。氏郷は千家再興をはかるため、徳川家康と共に少庵の赦免を、秀吉に何度も願い出た結果、少庵は赦免を知らされ、氏郷、家康の連名の書状は今も表千家の家宝として伝わっている。 |
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白虎隊 | ![]() |
白虎隊の由来は、戊辰戦争中に集まった、兵士が老人から子供にいたるまで足並みがそろわないので、年齢別による隊の編成を考えて50歳以上を玄武隊、36歳〜49歳までを青龍隊、18歳〜35歳までを朱雀隊、15歳から17歳までを白虎隊としたためである。またこれほどまでに、若者が多いのは日新館の教育に大きくかかわっている、会津藩校の日新館の教育は、会津武士のすべてに浸透していたようで、教育理念が儒教に発していたことは、日新館の広大な建物の中央に、孔子廟である大成殿がそびえていた事からも明らかである。日新館の教育が、「童子訓」に代表されるように、幼少からの教育に力を入れ、まっすぐな人間、恥を知る人間、思いやりのある人間を育ててきたのは、他の多くの藩校の中で珍しいことである。藩校が武張った事ばかり教えるのに対し、国を思い家を思う忠孝が、すなわち近代的に言えば、人類愛を意味していることは、最も注目されてよい。藩士の師弟教育をした成果は、学んだ者だけにとどまらず、幼少より日新館で学問としつけを”遊び”をとうして憶えていった者が、少年から青年へと長じる間にも、行動や思想が、一般に影響し、倫理的にも自ら感化することになる。戊辰戦争の際に士分以外の人々までが、敢然と立ち上がり藩士と苦しみを共にして戦ったのも、日ごろの正しい行動に触発された者とみてよい。14,5歳の少年たちが年齢を偽ってまで、白虎隊に入隊を願い出るケースが多かったのも、年少とはいえ、武士の生き方についての正しい判断力を持ち、真の勇気を常日頃から養っていたからである。戊辰戦争で、千載に名を残すことになった白虎隊の少年たちが、文武の教養も覚悟も、大人として、武士として遜色なっかたことは日新館の教育のたまものである。 |
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野口英世 | ![]() |
野口清作が「手ん坊」とあだ名された幼児期の不幸な火傷の傷跡を、小林栄先生や友人の善意の援助金を受けて若松の会陽医院で手術を受けたのは、明治25年10月中旬であった、13年間放置されていたために癒着していた左手の指にメスを入れて剥がす手術だったが、当時の医学では短くなった各指を離すのがやっとだったという。手術を担当した渡部鼎院長は、アメリカがえりのドクターで最新の医学の恩恵に感動した清作が猪苗代高等小学校卒業後、院長の医院に移り住み、雑用をしながら、英語、ドイツ語、フランス語を学び、漢籍をむさぼるように読んだという。 |
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山鹿素行 | ![]() |
山鹿素行は元和8年山鹿町に生まれた。当時の会津藩主蒲生氏郷の孫にあたる忠郷の時代で、ここは白河城代家老町長門守幸和の広大な屋敷があったから、その一室で生まれたという根拠で、誕生碑が立てられている。素行の父は伊勢亀山城主の関家に使え、関一政の家臣であった、関一政は蒲生氏郷の妹婿で、会津の氏郷に仕えて白河城主だったこともある。優れた学者で、家光の学問の師に推挙されそうになるほど、立ったが朱子学否定で赤穂に流された。 |
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